あれからグレコはチビたちを連れて裏からいつもの縁の下に少しずつ移動してきた。はじめはびくびくしていた子猫たちも母猫の様子で僕が敵じゃないと分かると僕の足元にじゃれてくるようになった。グレコはちゃんと安全かどうか確認しながら引越してきたのだ。
でもあくまでもノラはノラ。家の中では飼えないので雨を防げる軒下にすのことダンボールでちいさな家を作ってあげた。
半年前、テラスに現れ始めた頃グレコはすばしっこくて目つきも鋭く例の三角口でカーッをやるからあまりかわいくなかった。対してシマ吉は顔が大きく目が丸くてのんびりしていて鳴声も小さく「にゃ」と遠慮がちだったりしたので僕らは断然シマ吉派だった。
ご飯のとき、二匹がかぶるとグレコは鼻でシマ吉を押し出すようにして食べさせない。意地悪しちゃだめ!コラッ!と軽くしかったりしながら二つお茶碗を並べて食べさせたりした。
が、最近分かったのはノラにはちゃんと縄張りがあってグレコはきちんとそれを守っていただけだったのだ。節操がないのはシマのほうだった。
シマがお茶碗におしっこしたとき、シマ吉こらぁ!って追っ払ったら、グレコがこっちをみてやっと気持ちを分かってくれたと今まで見せたことの無い明るい表情をした。シマのマーキング(おしっこ)は気の弱いオス猫の情けない抵抗だった。
今日、三匹が仲良くじゃれて遊んでいるところへぬーっとシマ吉が現れた。
グレコはとっさに防御しにいった。あとをチビたちが追いかける。
グレコに鼻でつつかれたがシマはごろんとねっころがって動じないふりをする。
もうグレコは相手をしないが、そのかわりチビは一生懸命足を突っ張り背中をふくらませて威嚇する。シマは面倒くさそうにたまにわっと起き上がってみせる。
そのたびチビはびっくりしてぴゅーと逃げ出す。
もしかしたらシマ吉が父親なんだろうか?(実際、一度シマがグレコを追っかけまわしてるのを見た)だとしたら本当にだらしない父親で、あのドラマの世界と同じだと思った。
僕が勝手につけたシマのフルネームは島尾シマ吉だったが泉谷シゲ吉にかえてやろうかと思う。
麻のシャツ
梅雨入りした奄美は月火と嵐のような雨。雷もごろごろぴかぴかと激しかった。
ところが昨日の休みはうって変わって快晴で今日も引き続き晴れ。
休みの日に晴れるのは嬉しいがやはり営業日に雨だとお客様の足が遠のく感じで暇を覚悟する。(基本的に忙しい事はないのですが)
今日は朝から荷物が届いたので検品して店に並べる。今の時期でも週に2,3回の納品があります。ずっと待っていた商品で僕が海の近くに店を移したときに一番並べたかったもの。どんなに年をとっても洋服を着ることに楽しみが無くなったらさびしい。人に見せるというよりも自分が着ていて楽しくなる気持ちのいい服を僕はずっと探していた。葉山のS+Cの店に初めていった時の感動は忘れない。そこに置いてある服たちは本当に明るく清潔で、さわやかな風を感じるような、そしてとても綺麗なものだった。自分に似合いそうとかではなく似合うようになりたいと思わせる服だった。海のそばで肩の力を抜き、のんびり自然体で暮らす。それは夢のようにずっと思い描いてきたことで、それが現実には叶わなくてもその服は着るだけでもその気分を充分満たしてくれそうだった。
海のそばで気持ちいい服を並べる。そしてまた誰かとその心地よさを分け合えるのが今の僕の仕事。
ただただ見守るばかり
5時半に目が覚めた。猫の鳴き声で。(すみません、また猫の話です)初めてチビクロを見つけたのが去年の10月。夜、子猫の鳴き声が聞こえたので家の周りを探してみたらクーラーの室外機の下に小さな黒猫がいた。目だけが黄色く光っていた。親猫からはぐれたのか、ちょっとおびえている様子だった。後ろからそっと抱きかかえたが一瞬のうちに飛び降りてぴょんぴょんと飛び跳ねるように逃げていった。
その日は夜中ずっと鳴いていて窓からのぞくと塀の上で空に向かって親をよんでいるみたいだった。何日かしてこの猫が親かもしれないと思ったのがグレコで、ある日チビクロがグレコの後をくっついて歩いているのをみて、あぁやっぱりそうなんだと安心した。
それからグレコはしょっちゅうテラスに現れるようになったがチビクロは見かけない。もう大きくなって別行動なんだと思っている。
姿ももうチビではないだろうし、たまに遠くのほうに黒い猫をみつけるからあれがそうなんだと思う。
グレコは最初の頃はいつも縁の下に隠れていてなかなか出てこなかった。たまに顔を出してもカーッと口を三角にあけて威嚇するし、エサもお茶碗からサッとくわえてもっていき離れたところで食べていた。
それを繰り返すうち、いつの間にか慣れてエサを堂々ともらいにくるようになった。体に触れるのも絶対に無理そうだったのに今では平気で抱っこされる。いなくなった三日間、僕らが想像してたのはきっと子供を産んでたんだろうという事。少しすっきり細くなったし何よりもおっぱいがでろーんと伸びて目立っていた。でも、だとしたら子猫は何処にいるんだろうといつも気になっていた。ちゃんと面倒みてるのだろうか、もしかしたら産みっぱなしで知らんふりしてるのではと疑ったりした。
そして昨日の夜、7時でもまだ明るいが閉店時間なのでシャッターを下ろそうと店の裏に支柱をとりに行ったとき、海に続く道の真ん中にグレコがいた。そばに小さく黒いのが2匹チョロチョロしてる。おっぱいを飲んでるみたいだ。グレコはまっすぐこっちをみてる。
僕はあわててテラスにあがり、台所にいる相棒を呼んだ。
二人でテラスからじっと見つめた。そんなとこで車が来たらあぶないよって心配してたらグレコがゆっくりと草むらのなかに子猫をおうように移動した。ちゃんと母親してたんだと安心して、それから
昨夜も雨の中、体を濡らし夜遅くにご飯を貰いに来た姿を思い出し、なんだかいじらしくなった。
今朝もなんでこんなに早く来たんだろうと眠い目をこすりながらご飯をあげる。
「お前、ちゃんと母親してるんだねぇ」となでているとふと何かの音を気にするように耳を動かしていた。僕も遠くで猫の鳴き声を聞いた気がした。ゆっくりと家の裏のほうに歩いていくのでついていくとカーッと威嚇された。いったん知らんふりをしてひっこみ、後からそーっと裏をのぞくといた!黒い子猫が2匹、室外機の下から出てきた。グレコが引っ張りだしておっぱいをあげている。感動して僕はまた釘付けになった。
そしてさっきから僕は家の裏とテラスを行ったり来たり。グレコも同じように行ったり来たり。たった今も。雨が降っては大丈夫か?と声をかけに行く。そのたびにグレコはそれ以上は近寄らないでと目で威嚇するのだが、またしばらくするとにゃあとテラスへ顔を出す。
僕が子猫を連れて行かないように警戒しているのかも。
霧の夜
午前中は少し蒸すような暑さだったのに山のほうは全体に白いモヤがかかりそこから吹いてくる風はひんやりと肌寒いくらいだった。そのモヤがどんどん近づいてきてとうとう夕方から店や自宅もすっぽりと霧に包まれた。マイナスイオンを浴びまくる感じ。夜ごみを出すために外に出たら遠くのほうの灯りが霧で滲んで空全体にオレンジ色が広がっていた。本当に細かいミストシャワーのなか時折ボタッと大きな雫が落ちてきた。霧の中、車のいない道路でハナグロがのんびりくつろいでいる。近づいてもまったくおびえずじっとこっちをみている。いきなり人間の言葉で話しかけられたとしても驚かないくらい半分夢の中のような幻想的なシーンだった。
風に乗る音
予報ではもう入梅している頃なのに今日は朝から高い所に細長く薄い雲が浮かぶだけの気持ちのいい青空。長袖のシャツを着てちょうどいいくらいの適当な湿度のさわやかさだ。まだクーラーも必要ない。店内のライトもお客様のいない時間は消すようにしてなるべく涼しく過ごす。日向にいるとちょっと暑そうだが店の横は木陰にいるようで気持ちいい。いつか木の床を張ってもっとくつろげる(お客様にも)場所にしたい。朝、看板を出すときに道路を渡るがちょうど丘の上になっていて遠くまで見渡せ、たまに真ん中に立ったときに右にも左にも車が一台も見えないときがある。商売をしているのだから通りはにぎやかなほうがいいのかもしれないが僕は反対に嬉しくなってしまう。本当に静かで聞こえてくるのは波の音(時にはごぉーっと鳴るような潮騒)と鳥のさえずりだけ。
同じ星で生きている
昨日はGW明けの最初の僕らのお休み。
GWも平日も忙しさ(暇さ)は変わりないのだがなんだかちょっと気が張っていたせいか終わって少しほっとした感じ。天気予報は月曜から木曜までずらっと晴れマークが並んでいる。そろそろ梅雨入りするのでその前に植物なども太陽をいっぱい浴びる感じだ。部屋の掃除の手伝いをして、スーパーまで食料品の買出しに付き合い、そしてそのまま公民館の図書室へ本を返しにいった。ちょうどお昼休みで借りることはできず残念。そして午後はぼさぼさに伸びた髪を切ってもらった。昔から髪を切ってもらった後はいつも頭がボーッとして放心状態になる。本当にリラックスできる。お客様を迎える立場としてちょっと忘れてた大事な事を思い出させてもらった。買い物だって気持ちよくできるのが一番だ。
夜ご飯を食べたあとテラスにでたら星がいっぱいでてた。すぐにシマ吉とグレコが一緒に遊びにやってきた。シマ吉の左の前足からは出血の跡があった。おとといもびっこをひきながら歩いていたし、首筋に大きな傷を負っていたこともある。グレコもいつも体中に葉っぱやら何かの種などをくっつけているし、本当に毎日がサバイバルなんだと思う。ご飯を食べて少しごろごろとのんびりしてる姿をみてずっとここにいたらいいのにと思うがまたいつものように道路を渡って草むらのなかに消えていった。
どこで寝てるのかしらないが今日は満天の星空が気持ちいいよねぇと、本当に僕の頭の中は最近猫のことばかり。
時間の概念
今日から5月。雲は多いが適当に穏やかな日差しが気持ちいい。
前にも書いたが一週間や一ヶ月のサイクルが異常に早く感じる。
忙しくてあっという間ではなく全くその逆なのだけどあまりに変化の無い日々を過ごしているからだろうか、毎日が凪ぎ状態で平和だ。自分のテリトリーから動かずにいるとそこだけ時が止まり、気付くといろんなことが過ぎ去った後で時間の経過に気が付く。本当に浦島太郎になったみたいに。
その時間の経過が一度だけ逆転したときがあった。
近所のノラのうち、シマ吉よりももっと頻繁にご飯を食べにくるグレコ(顔が異常に小さいわりに下半身はぽってりして色もグレーっぽいからイタチみたいでちょっと意地悪な感じだからぐれた猫でグレコと呼んでいる)がある日ぱたっと姿を見せなくなった。ほぼ毎日来てたのが急に来なくなるとものすごく心配なものでもしや交通事故かと近所を探してみたりした。
結局、四日後に何事もなく現れたのだが、そのときは空白の三日間が一ヶ月くらいに長く感じた。それだけ平和で暇ってことなんだけど・・・。
今日もやわらかな太陽の下で、あきらかに僕よりも行動範囲の広い猫と一緒にのんびりご飯を食べるGWの間のあきれるほど平和な一日。
吾輩はノラなのだ
ずっとごろごろと雷がなっていて、ぱらぱらと雨が落ちてきたかと思ったらカメラのフラッシュみたいな稲光に続いてドーンと凄い音がした。結構近い。どんどん暗くなって目覚めた時間よりも今の方が暗い。明け方じゃなくもう日が暮れそうな感じだ。空と海の境は白い波が動いてるからそこが海だと分かるけれどまったく同じ色で見分けがつかない。すっぽりと幕をかけられたみたいに湿った色になった。猫のシマ吉が雨から逃げるように縁の下を通って家の裏に隠れた。朝に見かけるのはめずらしい。夜は時々ご飯を食べにくるので、その度に頭をなでたり、話しかけたりするのだけど、本人(猫)は全くマイペースで全然媚びたりもせず、それどころか昨夜なんてご飯を食べた後にくるっとお尻を向けたかと思うとお茶碗に向かってピュッとおしっこをひっかけた。何か意味があるのだろうが、裏切られたようでちょっとショック。
時々、夏!
今日は旧暦の3月1日。奄美では明後日の19日(旧3/3)が海開きだそうだ。
あまりにもいい天気だったので写真を撮りまくった。
天気予報、昨日が晴れの予報だったのに雨になったし、あてにならないけれど明日は雨の確率80%。今日は貴重な一日だけの晴れの日になりそうだ。本当にこの時期の天気は一日でころころ変わる。
子供の頃から強く感じていたのは南国独特の夏の太陽のまぶしさ。奄美の夏の日差しは強過ぎてまともに目を開けられないからいつも目を細くしていた。学校の校庭やグラウンド、自転車での帰り道、その横を流れる川も後ろの濃い緑の山もみんな陽に照らされてまぶしかった。また家の窓から見る外の景色も光があちこちで反射していろんな色が生き生きと映り、庭の小さな池の水面が天井に作るゆらゆらした模様をを眺めながら昼寝をするのは至福の時間だった。野球やプール、友達と遊ぶのが楽しくて仕方なかったから宿題なんてやったためしがない。子供ながらにここで生まれて本当によかったと感謝しながらたくさんの夏を思いっきり遊んで過ごしてきた。だから最近お客さんに「また焼けてませんか?なんだかずっと黒いですよね~」と言われるとちょっとにんまりとしてしまう。
ずっと紹介してなかったので載せました。夏がぐっと近づいた今日のairyです。
光陰矢のごとし
最近お休みは天気が良い日が続いていたのに今週は予報も外れ、火曜も水曜もスカッと晴れてはくれなかった。それでも雨は降らなさそうだったので今度は奄美パークよりもっと先の運動公園まで歩いていくことにした。車では行ったことがあるが、歩いていくのは初めてでどのくらいの距離、時間がかかるかは分からない。車と同じ道はつまらないからとちょっと山の中に入ってみたら畑の中で迷い込んでしまった。来た道を戻り、また大きな道路にでる。もうすでに運動公園まで行く気力は無くなり、途中で見つけた無人販売のキャベツを買って帰ることにした。舗装された長い直線の道路が山から海まで続いていてその先の喜界島を眺めながらのんびり歩く。目の前をプロペラの飛行機が飛んでいった。空港の前の道路からそのまま海沿いを歩いていけばうちに着く。歩いているのは僕らだけですれ違うのはみんな車だ。くたくたになって家に着くと見慣れたテラスや横の駐車場がやたらと小さく見えた。夕方は録画したままたまっているビデオの中から「男たちの大和」を観た。長渕剛の歌のイメージが強くあまり劇場で観たいとは思ってなかったのだが、船の上の戦闘シーンは凄かった。戦争は今から60年前の話でも実は僕が生まれるたった17年前の話なのだ。子供の頃に祖父から聞かされても大昔の話のような気がしていたが、祖父にとっては本当についこないだの話だったんだと今頃になって気が付いた。人生は短い。親、子、孫と三世代(あるいは四世代)が一緒にいられるのは本当に貴重な時間で時代がずっとつながっている証であり、それぞれに重なる時間、共に生きている時代を大切にしなくてはと思う。