ORANGE

一度吐いたものをまた食べて、そしてもう一回吐いた。なんとなく元気がないなと思っていたらやっぱり調子が悪かったのだ。きっと山の散歩の時に食べた山椒魚の干物×2のせいだ。山の道には日替わりでいろんなものが落ちている。雨の日の夕方にはミミズがたくさんいて次の日には干物になっている。山椒魚も生きたやつは見たことがない。いつもガビガビになってアスファルトにこびりついている。
朝いつものように5時に起きたら、オンはもうすっかり元気になっていて一緒に海の散歩に行く。ほっしゃんもついていきた。ほっしゃんも足の具合がぐんぐん良くなっており、オンに追いかけられても全力で走れるようになった。もう夜が明けて明るくなっていたのだが、薄く朝もやがかかっていて太陽がどこにあるか最初はわからなかった。見回したら山のシルエットの横にオレンジ色の大きな球が飛び出すようにあった。ちょうど奄美パークの先、島の東の端のほうにぽっかりと浮かんでいる。全然眩しくなく薄い雲の膜でオレンジのグラデーションがかかったようにみえる。携帯を持ってこなかったのが非常に残念。でもカメラに収めてもきっとこの感動は伝わらないだろうと思った。明日も見れるだろうか。明日は相棒も叩き起こして連れてこよう。三文の得どころではない。見ないと大損だ。本当に信じられないくらいでかいんだから。

眠れない夜

犬が起きてる音がしたのでもうそろそろ朝かと思って起きたらまだ夜中の1時だった。夕べは9時半くらいに寝てしまったのでもう十分寝た気もする。目がさえて眠れないので静かにパソコン。毎日平和にのんびり暮らしていてもごくたまにケンカもする。つい大声を張り上げてしまうのだが、我慢が限界に達して爆発とかではなく、たまたまカチンとどっかにひっかかってしまった感じで、キレるのとはちょっと違う。暴力なんてもちろんないし。で、時には人間もそんなふうに吠えることも必要なのだろうかと考えた。オンはめったに吠えない犬で、散歩中に出会う犬は必ずぎゃんぎゃん鳴くのだがオンは鳴かない。いつも尻尾をふって喜んでいる。そんなオンもごくたまーにいきなり吠えるときがある。寝ていて急に飛び起き吠えるのだ。夢でも見ているのだろうか。見えないけれど忍び込んでくる邪気のようなものを追っ払ってくれてるような気もする。昔、札幌の円山動物園でライオンの雄が観客に向かって吠えるたびに雌が「駄目よ吠えないで」とそっと寄り添っていさめるのをみて、ちょっと感動した。いろんなストレスを抱えていてもそんな風にそばに誰かがいてくれるとそれだけで救われるだろうなと思ったからだ。やっぱり動物が吠えるのと僕が怒鳴るのとは種類が違うな。僕のは人間が未熟なせいだ。成長していない子供と同じだ。ちょっと情けない。

シンプルに考える

昨日は久々、週末に晴れた。今日もいい天気。短パンとTシャツで朝5時から海へ行く。ビーサンを脱いで裸足で犬と追いかけっこをした。ガラスのかけらなどがたまに落ちているので注意しながらだけれど砂はひんやりと気持ちよく、この瞬間に気持ちがリセットされ新しい一日が始まる。
と書いておきながらしつこいようだが大事なことなのでまた税の話。
ようするに税なんて全部とっぱらってしまえということ。
税が無くなれば個人の生活に余裕ができ、消費も増えるだろう、経済も活発になるだろう、そして貯金もできる。大事なのはその貯金を国のお金として使いましょうと、タンスや今の銀行に預けていても何にもならないからだ。
個人の財産をひとつの銀行にまとめればいいのだ。
新銀行○○ではないが、店舗なんていらない。ネットバンクと同じで
窓口は全国にあるATM(そのまま郵貯でもいい)があればいい。
もちろん、自分のお金でもあるわけだから、いつでも引き出せる。
が、使わない間は必要なところで使ってもらう。もともとお金の出所はひとつで、それが日本中にばらまかれて、金の前に税や貯や公や資がついたりしているだけだ。
法人や企業のお金は今までのように従来の銀行があつかえばよい。
偉そう?でも言いたいのだ。
小沢さんは次回の選挙でまた節田に来られるのだろうか。
そのときは是非うちでお買い物を!お茶ぐらい出しますから。

腹立たしいのは

税収の問題。法の期限切れで簡単に税金が減ったり増えたりするのはおかしい。ガソリンの値段は暮らしに大きく影響するから、物価の問題として考えればガソリンもお金の価値と同じように毎年安定させるべきで、そのためにそのつど税率を考えなくてはいけないし、全国どこでも変わらない値段になるよう離島などは軽減措置も必要だ。暫定などと適当なことで済ませるからいけないのだ。消費税だって現在全てが徴収されているわけでもないのに簡単に税率アップなどと言ってほしくない。e-taxなどもコストの削減なのかもしれないが便利ではなく、手抜きのように感じる。自己申告、なるべく無駄な税金を払いたくないのが人の正直な気持ちだろう。それならば、所得に関係なくすべての国民が平等に税を納めるようなシステムにしたらいい。年金も健康保険も全て一律で支払う。住んでいる場所で違うものでもないし、自営もサラリーマンも民も公もない。いちいち国と地方に分ける必要なんてないのだ。税金を摂るのではなくて国がお金を預かるようにしたらいい。ちゃんと利息をつけ、貸付もする。企業に貸付けるのではなく個人にだ。たくさん預ければ預けただけ、毎年利息も受け取れ、将来受け取る年金額も増えるようにする。借すときは住宅ローンなど目的にあわせて金利を変えればいい。従来の銀行は国に負けないようにもっとサービスを頑張ればいいし、ATM手数料ゼロ、振込み手数料無料などは当たり前だ。国は国民から預かった大事なお金を無駄遣いせずに本当に必要なもの(ガソリンだから道路特定なんてもってのほか)に使えばいいのだ。
自分のことしか考えていない身勝手な人の集団にならないよう、みんながゆとりを持って助け合って暮らしていける世の中にするのが政治の仕事だろう。
なーんて島の端から口だけはいくらでも出せる。

日曜の雨は疎ましい

じんわりと寒くなって鳥肌が立った。「早く着替えないと風邪ひくよ」と誰だかに言われそうだ。細かい霧のような雨のせいで頭のてっぺんから足のつま先までしっとりと濡れている。びしょ濡れだったら着替えていただろうが、そんな微妙な濡れ方だったので、また着替えてくるのは面倒でそのまま店番をした。濡れた服は気持ち悪い。頭の中は、早く全部脱いで熱い風呂に入り、乾いたさらさらのTシャツとスエットのパジャマに着替えたいという思いに支配されながらも本を読んだ。犬と散歩をしただけなのだ。雨の中でも楽しそうに歩くオンとは対照的に僕は靴の間から染みた水で靴下が湿り、長袖のTシャツの袖も湿気を含んだせいで伸びてきたから、もう不快指数はピークになって「小雨のうちに散歩に連れてって」と言った相棒を恨む気持ちになっていた。ザーザー降る雨もしとしと降る雨も嫌いじゃないのに濡れるのは嫌なのだ。唐突に家って有り難いなと思った。大きな傘みたいで、どんなに雨が降っていても乾いた服を着てゆっくり眠ることができるのだから。そんなことを考えながら寝たせいか、夜中に喉がカラカラに渇いて舌が上あごにぴったり張り付き、それをぐぁっとはがす大きな音(確かに聞こえた)で目が覚めた。じじぃだ。
動物と比べて不自由なところをあらゆる方法(頭や道具)を使って快適、快楽?に変化させているのが人間の凄いところか。

次から次へと

PVのメイキングやアンプラグドが観たくて久々にMTVを契約してスカパーを観ていたら、ついジャパネットタカタのチャンネルも観てしまい、PCや大型TVの購入欲が爆発しそうになる。本当にうまいよなぁ~。欲しくても我慢しているものはいっぱいあるけれど、本当に飢えているのはいい音で音楽を聴くということで、TVを観るにしてもCDを聴くにしてもいつも物足りなさを感じていた。カーステレオも壊れていて、いい音を楽しむことからどんどん遠ざかっている。昔の大きな箱型のステレオで聴いたレコードの音や、ビデオが出始めた頃のHI-FIサウンドのほうが今のデジタルの音よりもずっと良かった。だからもうあまり新しいオーディオに期待していなかったけれど、前からちょっと気になっているものがあり、この購買欲に乗って思い切ってネットで注文してみた。デザインも気に入っているし何よりもシンプルなのがいい。でも重要なのは音だ。自宅で試すことができるのはありがたい。欲しいものがいっぱいあるのは嬉しいことだ。そのおかげで頑張ることができるし。と先日同じようなことをお客さんにも言っていただいた。そうだ、うちの店にも欲しいもの(僕が)、お勧めしたいものがたくさん入荷中でーす。

夏の匂い

快晴!でも明日は雨の予報で、日曜も雨だったし、毎日日替わりの忙しい天気・・って前にも書いた気がする。不安定な天気がいつものことになってしまった。今のうちお日様のありがたさを充分に味わおうとテラスにゴザを敷き、犬と猫と一緒に横になる。目線が同じで自分もでかい動物になった気分。べろべろと顔や足を舐められ、丸めた頭も同じくべろんべろんとやられる。仰向けになった僕の上にオンの黒い顔がせまり、その後ろから太陽がギラッギラッと光を射してくる。眩しくて夏の匂いがする!と思ったら舐められた手から漂っていて、ゆでたそら豆の匂いにそっくりだった。

「痩せましたよね!?」の理由

犬の散歩で歩いたことのない道を歩く。海と反対側のサトウキビ畑の中にある道で、まっすぐに見えてもゆるく上がったり下ったりする坂になっていて、知らないうちに少しずつ登っていき、振り返ると海が丸く大きく広がる景色が見えた。本当に真っ青だ。いつもはその海の方に行くが、砂浜を横に移動するだけで同じ風景ばかりで面白くない。山側だとそうか、縦にも横にも奥にも上にも冒険できる。いろんな角度から景色を眺めることができる。遠くに自分の家も見えた。昔、東京に住み始めた頃、杉並のアパートの窓から新宿の高層ビルが見え、結構近くにあるような気がして、ずっと見えていればまっすぐに歩いていけるだろうと挑戦したことがある。大きい通りを飽きることなくひたすら歩き続けた。歩きながら、「生まれた場所からずいぶん遠いところに来ちゃったんだなぁ」と妙に実感した。走るのは嫌だが地面がつながっていれば歩いてならどこまでもいけるとも思った。タダだし。それが18歳の時だった。それから15,6年経って30代になっても住んでいた相武台から厚木や町田までは何度も歩いたし、もう少し若い頃、よみうりランドから目黒までバイクを押しながら夜通し歩いたこともあった。そのときは財布を持たずに出かけてしまい、目的地のすぐ近くでバイクが故障してしまったから仕方なくだが、小田急線の相武台~町田間は本当にお金がなくて定期代が惜しかったのだ。島に来て何でも車を使うのに馴れてしまったが、今度歩いてどこまでいけるか試してみようかな。名瀬まで歩いて行ったと言ったらみんなびっくりするかも。
なんて暇なやつなんだと思われるだけか。

ちりとてちん

うちは、BSもCSも見れないので普通に8時15分から見ているのだが、毎回8時半から始まるニュースのおじさんが、いつも今まさに僕らと一緒にドラマを見ていましたといった感じでうなずいてからしゃべりだしたりするから、「この人もみてるんだね~」と僕が言うと、「そんなわけないって。5秒前、3、2、1、ハイでしゃべるからだよ~。忙しくて見てないよ」と言われた。それでもきっと涙をこらえていたり、たまには泣きながらしゃべったら面白いなと思っていたら、いきなり「明日の最終回もお楽しみにどうぞ」と言った。やっぱ見てるじゃーん。
と、このことを書くつもりでいたら、いつも読んでいる永井さんの日記でもこのドラマの話題が出てて大笑いした。僕はこの世で一番大事な仕事がお母さんだと思っています。それは「Mrインクレディブル」のメイキングの監督の話にも出てきて、やっぱりそうだと、それから僕は絶対女の人にはかなわないなと思うのです。

月夜に潜む

玄関に通じる居間のドアがガチャガチャなる音がしたので、オンが外にトイレに行きたいのだと思い頑張って起きたら、もうすでに部屋の中のトイレシーツの上におしっこと大きなウンチをした後だった。朝ごはんを催促してくるがまだ5時過ぎだったので、「あと一時間待て」とソファに一緒に座るように合図した。あきらめきれないのかまた玄関に行くので仕方なく一緒に外に出る。店の裏の駐車場に行ったら、まだ暗かったけれど月が照明のように薄く明かりを灯していて綺麗だったので散歩をしようと海のほうではなく国道沿いに向かった。道路を渡り、緩やかな坂を下り始めたとき、いつものように後ろからついてきた子猫たちのうちの一匹がいきなり斜めに道路を横断しようとしたのが見え、同時に僕らの後ろ、空港のほうから一台の車がスピードを上げて近づいてくる音が聞こえた。ライトだけ眩しく光るが、きっと猫の姿には気づいていない。下手にブレーキを踏むほうが危険なくらいのスピードで、猫がこちらに戻ってこなければ一足早く向こうへ渡りきれるだろうと一瞬思い、そしてその通りに車が近づく前に無事向こう側の歩道へ飛び込むのを見た。しかし、安心したのはつかの間で、その後を追いかけたもう一匹の猫がちょうど、僕の目の前を車が横切る瞬間に飛び込んだ。ぶつかる音がしたのかどうかも憶えていない。でも小さな黒いかたまりがぽーんと弾き飛ばされる瞬間を見た。車の前ではなく、横に飛ばされた猫はそのままこちらに走ってきてバス停の裏の茂みに倒れこんだ。あまりの瞬時の出来事に僕は気が動転し、猫を凝視するが、それがクロッケなのかほっしゃんなのかも分からず、ただ目をしっかり開いて、こちらを見ていることが少し気持ちを落ち着かせた。暗闇で怯える猫のそばでオンは何かを口に入れボリボリと音を鳴らし、しきりに僕にからんでくる。いらついた僕は「静かにしろ!」とつい平手で頭を叩いてしまう。いったんオンを家の前につないで急いで戻る。猫はそのままそこにいて、そうっと抱き抱えて怪我の様子をみる。尻尾が長いからほっしゃんだとわかる。どこからも出血の痕はなく、つぶれているところもない。抱かれているのを嫌がり、足をじたばた動かすのでゆっくり下におろすと、後ろ足をひょこひょことびっこをひきながらまた近くの草むらの中に隠れた。歩けるのならば、しばらくそのままで大丈夫だろうといったん家に帰る。落ち着かないオンに餌をあげ、また外にでると三匹は揃って庭に戻っていた。一見いつもと変わらぬ風景だが、ほっしゃんはついさっき死にかけたのだ。もう少しでこの世から消えてしまうところで、ついこないだメス猫のクロクロが命を絶やさぬための本能をみせていたすぐそばで素知らぬ顔でほっしゃんはクロッケと同じオス同士でじゃれあっていて、僕もこの子達の母親が姿を見せなくなっても何の心配もせず、いつかこの子達だってそういう日が来るものだと本当に冷たいくらいに思っていたのに、目の前で命を失いそうになり、今またびっこをひきながら戻ってきてご飯を食べている姿を見て、突然、これが日常であり、死はいつでも僕らの生と隣り合わせで、悲しいのはそれを見ないよう、知らないように暮らしていることだとわかる。そういえばこの子たちが産まれた瞬間にも立会い、そのときも涙を流したが、そのときはやわらかく暖かな感情だったように思うが、今回は悲しみや怒り(いったい何に対してなのかわからない)や脱力感が入り混じった得体の知れない複雑な感情が湧いてきてまた気がつくとこらえきれずに泣いてしまっていた。