うさぎのおじさん

日記を書けないのはネタがないからではない。
更新しなくても何も問題ないからだ。
しかし、毎日誰かの書いた言葉は読んでいる。
何もしゃべらず、人の言葉を聞くだけでも許される。
日常は他人と接触することで動く。
朝起きればすぐそばに相棒と赤ん坊がいる。
大抵泣き声で始まるがたまにご機嫌な笑い声のときもある。
一緒に、ご飯を食べて、お風呂に入って、
店を開けて、お客さんがやってきて、笑いながら話して、
そうやって一日が過ぎていく。
そうやって幸せな毎日が繰り返される。
でも悲しみもいつもどこかに潜んでいる。
ずっと遠い外国のような場所で起きる出来事もあれば、島のなかのすぐ近くで起きる出来事もある。
ニュースで知ることもあれば、全く知らずにすむことも。
知ってしまった悲しみが頭の中の想像であるうちは、目の前の日常にピントを合わせれば
いつでも明るい気持ちに戻れる。
だからあんまり想像したくはないがあえて想像してみる。今の幸せがいっぺんに消えてしまうことを。
今、目に映るものがいつかはみんな消えてしまうのは解っている。
でも、それはずっとずっと先のことだろうと考えてる。
誰もが突然やってくる悲しみのことなんて考えないのだ。
でもやってくる。いつか必ず。
その人が書いていたものも幸せなのんきな日常だった。
日々の暮らしぶりをいつもたんたんと文章にしていた。
毎日書いているものを誰かが毎日読む。遠く離れた場所で。
僕もその誰かのなかのひとりだった。
ある日、その人が僕に言った。「毎日詩を一遍ずつ書いて送りなさい」と。
一遍くらいなら楽勝だと軽く返事をしてしまう。
だが、しばらくして、毎日書くことの苦しさから僕は逃げた。
その人は続けることの大切さを僕に教えてくれたのに。
友人が去って行ったような気分とあとで日記に書いてあった。
僕はそれからその人の日記を読まなくなった。
もう2年近く経つ。
パソコンを開いてもそのページにいかなければ目にすることはない。
ネットなんてそんなものだよと、話してくれたのもその人だった。
夏の暑い日に店の前に車を停めてテラスにいた僕に向かって「よぉっ!」って
手を挙げたときのあの笑った顔が忘れられない。
毎日届いていたはずの朝の日記を読むことはもうできない。
いつかはと思っていたことが叶わずに終わる。
僕は友人なんかじゃない。でも僕にとって本当に大きな大きな存在でした。
その人が書いた文章がいつでも僕を明るく前に進めてくれた。
大切なのは透明で健全なまなざしを持ち続けることだよって。