えのちち

そうっと目を開けると目の前にピンク色のおっぱいがあった。
ほんのり甘いミルクの匂いがした。母猫のふさふさした毛の遥か彼方に真っ青な空とぽつんと白い雲が浮かんでいるのが見える。振り返ると右耳が透けてみえるくらいに眩しい太陽があり、左には大きな鉄の塔がその青い空に向かってまっすぐに伸びていた。猫は前足をそろえて、おしりを後ろにぐーんと突き出すように伸びをしたあと、ゆっくりと歩き出した。母親がミャーと呼んだが、無視してそのままとことこと林を抜けて石の階段を下りていく。途中、イカを焼くしょうゆのこげる香ばしい匂いもしたが、まだ自分には硬くて食べれそうにないので無視してすすむ。大きな石の階段をひとつずつ飛び降りていくと目の前に青い海が見えた。ところどころきらきらと光を反射させながら、白い波をゆっくりと何度も島に向かって繰り出していた。岩場まで降りると人間のカップルが大きな石の上に座っていた。二人は海を見ながら美味しそうにおにぎりを食べている。猫に気づいた女の子は、手の中のおにぎりを少しだけ割って岩の上に置き、猫に手招きをした。しかし、まだおっぱいしか飲んだことがない猫は匂いを嗅いだだけで口にはしなかった。カップルは「またね」と猫に手を振り、その場を離れた。猫はそうっとあとをついていった。二人は岩場をぐるっと回って、もうこれ以上前に進めない行き止まりの標識の立つ場所まで行き、そのまま戻るのかと思ったら、すぐ横の細い獣道のようなところを登っていった。猫も大きな石の階段を登るのは嫌だったので、そのままあとをついていく。どんどん登っていって、もう少しでまた石の道に戻るというところで二人は足を止めた。道の横には石でできた手すりがついていて、それは海のほうに少しせり出すようになっていたから、下から登るにはちょっとぶら下がるようになってしまい危ない。下手をするとそのまま海に落ちてしまう。猫はしばらく下のほうで様子を見ていた。すると男の子は上手に手と足をひっかけ、簡単にするっと上にあがった。それから体半分を手すりのうえに大きくそらせて手を伸ばすと、女の子の手を握ってふわりと真上に引っ張りあげた。女の子の体は軽く橋の上に乗り、それからゆっくりと手すりを越えた。猫は自分も引っ張ってくれないかと思ったが、全然こちらをみてくれない。代わりに男の子は女の子に向かって、今登ってきたその崖の下を覗き込みながら、
「君のお父さんやお母さんに大事なお嬢様をこんな危険な目に合わせたなんて知れたら大変だな」と言って笑った。猫には意味がわからなかったが、自分のことはもう助けてくれそうにないので、自力で近くの木を登って石の道に戻った。元来た道をしばらく歩くと今度は目の前を大人と子供が並んで歩いている。家族のようだ。小さいほうの子供がお父さんの肩に乗って歌を歌っていたが、お兄ちゃんが「お前だけずるい!僕も肩車して!」といったのでお父さんは一度女の子を降ろし、今度は右手に男の子、左手に女の子を抱えて歩き出した。男の子も女の子もニコニコ笑ってお互いを見ている。たまにお父さんの頭をぺしぺしと叩く。お父さんは大きく腕を上げて子供たちをなるべく高いところに持ち上げ、のしのしと歩いた。お母さんはそばで心配そうに見ているが、やっぱりにこにこ笑っている。
猫は石の道を横にそれると草薮を抜け、野原の真ん中にぽつんと一本だけある大きな木の上に登った。大きな木の大きな枝によじ登り、がりがりと爪を研いだり、頬をすりすりしたり、くんくんとにおいを嗅いだりした。それから空に向かって高く前足を伸ばしてみた。宙を切るだけで何もつかめなかった猫はそのまま一回転して芝生の上に四本の足で降り立った。猫は今度は二本の前足をなるべく横に大きく広げて草の大地を抱えた。それから大きく息を吸い込むと空に向かい、力の限り大きな声でミャアーーンと一声鳴いた。
暗くなりはじめた空にはゆりかごみたいな月とぴかぴか光る星が並んで浮かんでいた。